先物取引とは、ある一定量の商品を、将来の決められた日に、あらかじめ決められた価格で、受渡しすることを売手と買手との間で約束(契約)する取引のことです。 したがって、取引をした時点では代金の支払いなどは行われませんが、受渡しを行うと約束した日には、先物取引の買手は必ず必要な代金を支払い、また売手は必要な量の商品を買手に引き渡さなければなりません。ただし、先物取引の買手はいつでも契約を転売することで、また売手は買戻すことで、それぞれの取引を手仕舞うこともできます。 一般に、先物取引ではある商品のことを「原資産」、将来の決められた日のことを「期日(または満期)」、決められた価格のことを「先物価格」と呼んでいます。また、転売や買戻しあるいは受渡しによって先物取引を手仕舞うことを「決済する」といいます。 株価指数先物取引とは、日経平均株価やTOPIXのような株価指数を原資産とする先物取引のことです。株価指数先物取引の場合、受渡しを実際に行うことはできません。そのため、株価指数先物取引の最終決済は、期日における清算価格と先物価格との差額部分を受渡して行います。このような決済の方法を「差金決済」といいます。 当社では、株価指数先物取引のうち、日経平均株価をモバイルSEO とする「日経225先物取引」と「日経225mini」の2つの株価指数先物取引を利用できます。
株価指数先物・オプション取引の価格は、対象とする日経平均株価指数の変動等により上下しますので、これにより損失が発生することがあります。市場価格が予想とは反対の方向に変化したときには、短期間のうちに証拠金の大部分またはそのすべてを失うことがあります。 株価指数先物取引は取引金額が差入れる証拠金の額を上回るため、市場価格が予想とは反対方向に変化した場合には差入れた証拠金の額を超える損失が発生する可能性があります。 株価指数オプション取引の売り方は取引金額が差入れる証拠金の額を上回り、市場価格が予想とは反対方向に変化した場合の損失が限定されていません。 株価指数先物取引の委託手数料はインターネット経由の場合、日経225mini 1枚あたり105円、日経225先物1枚あたり525円です。 ※ 自動最終決済時の手数料も同様です。 ※ 電話経由の場合、約定代金×0.042%、最低手数料は日経225mini 1枚あたり1,050円、日経225先物1枚あたり10,500円です(手数料は、すべて税込表示)。 株価指数オプション取引の委託手数料はインターネット経由の場合、約定代金×0.21%、最低手数料210円です。 ※ 自動権利行使・権利割当の手数料は約定代金×0.21%です。 ※ 自動権利消滅・権利放棄の手数料はかかりません。 ※ 電話経由の場合、約定代金×1.575%、最低手数料10,500円です(手数料は、すべて税込表示)。 SEO ・オプション取引で必要な証拠金の額は、大阪証券取引所の採用する「SPANR」で計算したSPAN証拠金額をもとに当社が定めます。 ※SPANRは、シカゴマーカンタイル取引所の登録商標です。 必要証拠金 :(SPAN証拠金額×100%※1)−ネット・オプション価値の総額(※2) (現金必要証拠金=必要証拠金×50%※1) 株券を代用有価証券(原則として掛目70%)として使用することができます。 維持証拠金 :(SPAN証拠金額×100%)−ネット・オプション価値の総額(※2) 日経225miniの場合は、日経225先物の1枚あたりの証拠金額の10分の1です。 ※1 指数またはプライス・スキャンレンジの変動状況によっては、必要証拠金計算時のSPAN証拠金額に対する掛目について最大200%まで、現金比率については、最大100%まで、それぞれ一時的に引き上げることがあります。また、維持証拠金計算時のSPAN証拠金額に対する掛目について最大200%まで当社の任意で一時的に引上げることができるものとし、現金比率については、100%を上限に、当社の任意で一時的に設定できるものとします。 ※2 売オプション最低証拠金がSPAN証拠金額を上回る場合、SPAN証拠金額は、売オプション最低証拠金額になります。 売オプション最低証拠金額:プライス・スキャンレンジ×2.5% 株価指数先物・オプション取引の取引金額は差入れる証拠金の額を上回ることがあります。 株価指数先物・オプション取引の取引金額の必要な証拠金に対する比率は、SPANRをもとに、先物・オプション取引全体の建玉から生じるリスクに応じて計算することから、記載することができません。 株価指数先物・オプション取引では、証拠金の種類、証拠金率および代用有価証券の掛目は金融商品取引所等の規制等または当社独自の判断によって変更されることがあります。 また、保有可能な建玉数に上限が設けられており、相場状況により当社が変更することがあります。 当社の都合により、イブニング・セッションの注文受付開始が遅延すること、または当日の横浜 マンション ができないことがあります。
母鈴は葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の娘で、その兄(次男)金太郎は請われて宝生流シテ方の松本家に養子入りした。すなわち宝生九郎の高弟として知られた能楽師松本金太郎がこれで、その子松本長は鏡花の従兄にあたる。長の長男は俳人松本たかし、次男は松本惠雄(人間国宝)。 母は、鏡花にとって終生追慕の対象であった。12歳で松任の「成の摩耶祠」を訪れたとき、摩耶夫人像を母の面影に重ねて以来、彼は死ぬまで摩耶夫人を信仰していた。 デビュー当時、ペンネームに「畠芋之助(はたけいものすけ)」を用いたことがある。 鏡花にとっての尾崎紅葉は、敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加え続けたという。没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。 処女作『冠弥左衛門』が1894年(明治27年)に加賀北陸新報に転売、再連載されたことも、おそらく紅葉の口利きによるものと思われる。 鏡花がほとんど旧師紅葉を神格化していたのに対し、同門の徳田秋声は師とのあいだに距離を置き、自然主義一派に加わったため、二人の仲はよくなかった。改造社で「円本」を出す際、弟子の了解をとるべく山本実彦が秋声を訪ねると、では鏡花のところへも行こうというので行き、話していると、秋声が、紅葉はお菓子が好きでたくさん食べたから胃を悪くして死んだのだと言ったところ、鏡花は火鉢を飛び越えて行って秋声を殴り、山本が間に入って秋声を外へ引きずり出したが、車の中で秋声は泣き通していたという。しかし後年、鏡花の弟(泉斜汀)が秋声の持っていたアパートで没して以来、二人は和解し、交流を持つようになった。鏡花が死んだ時、里見クがあちこち知らせに歩いていると秋声が来て、今死んだと伝えると「駄目じゃあないか、そんな時分に知らせてくれたって!」と怒ったという(里見ク「二人の作家」) 尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また大福餅を買ってこいといわれて、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台のやすい大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。 家紋は笹龍胆だが、紅葉にあやかって源氏香の紅葉賀を常用していた。 妻・すずはもともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓で、師紅葉は二人の関係を絶対にゆるさず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっているという。紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかった。終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。 鏡花は有名な潔癖症で、このことは文壇にひろく知られていた。食事は家で夫人の作るものしか口にせず、もらいものの菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、つかんでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。* 潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。しかしそのわりに豆腐そのものは好きでよく食べたし、貧乏時代はおからでもっぱら飢えをしのいだ。 谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、無頓着な谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しかこわくて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。 中華料理にさそわれて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」とあわてて宝丹を一袋ぜんぶ飲んだことがある。生ものはむろんだが、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクなかたちをしたものも絶対に口にしなかった。 お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめてあつく寺社仏閣の前ではかならず土下座したと伝えられる。また、自宅の天井板の合わせ目には全て目張りを行っていた。 狂犬病をおそれて犬ぎらいだった。蛇もきらいだったそうだが、作品にはよく登場する。 酉年生れの鏡花は向かい干支の兎にちなむものをコレクションするのが趣味だった(本人は母親に兎のものを大切にせよと教わったとしるしている)。マフラーにまで兎柄を用いた鏡花は収集品が大の御自慢で『東京日日新聞』の「御自慢拝見」という欄に登場したこともある。 文字の書かれたものを大切にすることはなはだしく、「御はし」と書いてある箸袋程度でも大事にしまっておろそかにはしなかった。人に字を教えるのに畳の上などに空で書いたあとはかならず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。几帳面で原稿などは校正ののちかならず手元に戻して自分で保管した。原稿の大半は生涯筆で書きつづけた。 鏡花の作品は生涯総ルビで発表されつづけた。 着物の描写が丁寧で細密なことは鏡花作品の特徴だが、これは三越婦人部の発行していた『時好』というカタログ雑誌を知りあい女の人からわけてもらい、それを見て研究したものだという。鏡花はこれを紅葉に教えられた取材の方法であるといっている。 著書の装訂、挿絵の大半は鏑木清方か小村雪岱によるもので、ことに雪岱はその号を鏡花が名づけて以来の名コンビだった。色の好みもはっきりしていて、紺のような濃い色を嫌った。 里見クは、晩年の鏡花と家が近かったために始終行き来し、そのうち鏡花に弟子扱いされるようになってしまった。いわば「おしかけ師匠」だが、人柄が好ましかったので特に異議はとなえなかったらしい。 幽幻院鏡花日彩居士という戒名は、弔問に訪れた文人たちがおのおの撰したなかから佐藤春夫のものが選ばれたのだという。 金沢市の主催している泉鏡花文学賞の正賞は「八稜鏡」。鏡花好みの兎があしらわれている。